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信じる事の難しさ

【何にも無限の可能性がある!】
と言っても遠い話のようにしか感じられないかもしれない。

動物を育てる時、子供だけでは無理!と思う人も多いかもしれないが、金銭的な問題では難儀だけれど動物との信頼関係・動物が自然体で利口に育つ事に関しては子供だけで育てた場合でも驚異的な才能を見せてくれる場合が多い。

何故だろう・・・と考えた時、純粋に信じる事や先行きの見通しなどを考えない無知な心がそれを生み出す場合が考えられる。

例えば、犬などの放し飼い。(※条例などで禁止されているので放し飼いは罰せられますのでできません。)
犬を野放しで飼育するということは、禁止されているだけではなく様々な問題を連想します。
これをすべて回避し本当に利口な犬・共存できる犬というのも事実沢山います。
大人は規制などを重んじますが、実際はそれだけでしょうか?
物事の是非を知り・先行きの動向を予測しながら行動するということを自然と身につけることにより、信じる事を忘れているのではないでしょうか?
犬を嫌いだったり、放し飼いの犬によって迷惑する人が出てくるのは事実です。
ですが、犬嫌いの人に犬は寄っていきません。
迷惑かけるというより、犬自体が接触を拒むので犬嫌いや困るという人の目に入る事も無いはずなんです。と書いてもいろいろな事を連想するはずです。これを信じられない事として喩えた一つの例です。
(この一つの例は、野生ではなく、人と共存すること・人の生活の営みを理解した犬に焦点を置いています。)

では、私自身はどうか。
やはり連想が先に立ち、信じ切ることは難しいです。

自分の犬は無理です。必ず繋ぎます。自問自答するが、自分の犬を大切に思う気持ちは子供の頃以上だと思いつつ、あの時ほど信じ切ることはできません。

子供の頃に、犬を飼っていました。とても利口というのは私自身は思わず、周りの人にどうしたらそうなるか聞かれました。
私はその頃、今いる犬達のように彼らの幸せを考える事より、自分と同じ位置に犬を置いていたような気がします。
大人として考える、養ってあげるという一番重要だと思う部分はまったく考えもせず、責任感などもまったく持ち合わせておらず、一緒に遊んだり悩みを相談したり、犬に何かやって貰っても当たり前だと思ったりそんな風に考え、犬がやってくれることが傍目で見るとすごい(良くも悪くも)事だったにも関わらず、それが日常の一部だったのです。
一言だと、信じ切っていたのかもしれません。
学校の終わる時間には迎えに来ました。私が身が危険だと判断したときは相手に牙を剥きました。私が遊んでいる間は微動だにせず待っていました。それは3時間でも4時間でもです。信号は私の方が赤信号で渡ろうしてそれを制止しました。成長した私が、わがままになり、うっとうしいと思うようになったら祖母の送迎をしていました。
忠犬ハチ公の話など感動など感じられず、当たり前なのに不思議だと思ったくらいでした。

今の犬達にこれをやれとも思わない。私は成長し、私が守るという構図ができあがっている。
私が守り抜きたいというエゴかもしれない。
あの時代の私の犬は、子供である私を誠心誠意守ろうとした、幼い私を今の私の思いと同じように私を守ろうとしたあの犬の精神は今思うと人が定義づけている知能を越えている気がする。5~6才の知能があるというが、それ以上だと思える。
現在私は【自分が守る】という自分がいなくては成り立たない構図を勝手に作り上げ、彼らの無限の才能を閉じ込めているかもしれない。

能力は限りなく無限に発揮でき、それは支える信頼関係があり成立する。

どんな偉人でも、偉人を支えた人がいる。
支えた人は凡人かもしれないし、下げずまれていた人だったかもしれない。

一つだけ言えるのは信頼関係が大きく関わることに間違いはないと私は思う。

生きる上ですべてを蔑ろにしてもそれがわかっていても信じる事ができるほど私は強い人間ではない。
弱い人間だと思う。

【知らぬが仏】 という言葉があるが、使い方によっては深く納得できる言葉である。

情報化・管理能力を問われる現代、今一度考え直す必要があると強く言いたい。
人は人によって管理されてすべてが丸く収まるものなのだろうか?
立法国家である以上、社会のルールは定められ円滑に進められるが、条例などでも事細かく逐一指示を決め、善悪を常に問わねばならないのだろうか?
人はそこまで愚かな生き物なのだろうか?
信頼関係が成り立たない(深い意味での)付き合いに便利なツールとして対価があると思う。
この際の善悪には非常に便利だが。。。

だが人はどうしても知りたいと思う。知ることによっての安堵感を求めたくなると思う。

本当の心の時代とは、何かの真似事だけをするのではなく、隣の人をいかに愛することができるかによって左右される事では無いか?
隣人とは、私は身近な人からという言葉に置き換えて解釈している。
自分の手の届く範囲の人、そう思っているのだが実戦が難しく未だ解決には至らない・・・。

大切にするという事は、箱に閉じ込め四六時中監視しその中で自由を与えることではなく、異なった考えを受け入れながらも自己主張をしていくバランス、喜怒哀楽のすべてを出し切れるということではなかろうか・・・そう思いつつ答えは出ず。

信じ切ることこそ人生最大の課題であり、難しいこと、そう感じている最近かな。。。

動物を育てるという事は誰に相談するよりも、いろいろな事を教えてくれる。
これは私のエゴであると感じてはいる。私は動物好きではないと感じている。
動物には感謝している。そして尊敬している。
あの時のように、また同じラインに立って接することはできるのだろうか・・・これも自問自答する。
無理だな。。。と心の中で私はつぶやく。

この文章も実在する私を知っている人が読んだ場合と知らぬ人が読んだ場合では捉え方がまったく異なってくるだろう。

すべての雑念を取り払い新たなる一歩を踏み出した時、人生はどうかわるのだろう・・・。

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